Thursday, October 16, 2014

感情の器 Vessel of emotion


以前マリリン・マンソンのPVにブリトニー・スピアーズの曲をシンクロさせたらあまりにもピッタリだったというビデオをYoutubeで見たけど、現実的にマリリンもブリトニーも同じようなものかもしれんと思う今日この頃。ブリトニー・スピアーズの作品自体は興味はないけど、あまりにニュースが凄まじいので、大変だな、立ち直って欲しいなと思うようになった。
Suicide was always about life. But we couldn' t call it Life. So we called it Suicide because we wanted to recognize life. (Quotations from Alan Vega, Wikipedia)


アルコール依存や自殺や自傷というのは、心を死なせないために身体を犠牲にする行為で(しかし身体を犠牲にすることで結局は心も共倒れするが)、じゃあ身体をかばうために心がやることが何かというのはいまいち思いつかないのだが、とにかく一見して自殺行為に見える行動は、何かをかばうため、ある意味生きるためにやることなのじゃないかと考えてみたけど、それって皮肉な話でもあるなと思う。裏表があって、二面なんだけど、でも同一のものだという現象はややこしい。

神話の本読んでたら、たいてい相反する二つのものに対して、第三の存在とか現象とかが出てくるという話があって、面白い。それで中和されるというか、調和する。第三の存在というのは大抵何もしない人とか役立たず?というか、「無為」なものなんだとかいうのも興味深い。

ちょっと違う話になってしまうが、自分の中にあるものが裏返しになって外に出てくると、自分でもなかなか手に負えないものだと思う。相手に対する憎しみの根源が愛情で、でもその愛情だと思ってるものが単なる執着に過ぎないのかもしれず、でもそもそもその執着が生まれたのが愛情からだったとなると、いちいちそれが何なのか考えたり、名前を付けて分類したりするのはばかばかしくなってくる。要するに全部まとめて一種のエネルギーであって、それをlifeと呼ぶかsuicideと呼ぶかは(あるいは愛憎どちらに分けるかは)、手のひらを見て手と呼ぶか、手の甲を見て手と呼ぶかみたいなもので、どちらも同じものの裏表なだけだという気がする。問題はそれをどういう形で表出させるかだけかもしれない。例え気持ちが伴っていなくても、いい形で表出出来れば解決するのかもしれない。液体をどんな形の器に入れるかみたいなもので、そもそもは形なんかなくて、丸いものに入れれば丸くなるし、四角いものに入れれば四角くなるし、液体=気持ちというかエネルギーそのものの本来の形などというものはないとすれば、どういう風に表出されるかは器の形状だけの問題だということになる。人間関係で言えば技術の問題。愛してるという言葉を使えば愛情になるし、殺してやると言えば憎しみになるとすれば、どっちの言葉を言うかだけが問題で、自分がどう思ってるかなんて問題じゃないのかもしれない。「本当は愛しているけど憎しみの言葉を言う」ということは成立しなくなる。憎しみの言葉を言えばそれは憎しみになる。こういうことを「当たり前じゃないか」と思える人がいるとしたらうらやましい。何だかよく分からなくなったので終わり。

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