Thursday, October 16, 2014

森羅万象の佐藤直樹氏のとこのBBSでの、グロ映画「ネクロマンティック」についての以前のやりとり。(映画は見てないくせに・サントラは最近大好きになったへルマン・コップ)


自分:
さすが本国で上映禁止になっただけあるようですね。
自分はとうてい見れそうにありません。文字だけなら笑えますけど。。

なんか、死体趣味を単なる死体趣味以外のところにまで持っていける
(アブノーマルなものにある種の普遍性を持たせられる)人と、
アブノーマルなものをそのままアブノーマルに提示してしまう人の
差なのかもしれませんね。

つまり、
異常だけど、でも実は誰にでもその異常性は潜んでるかもしれないよ、
というアプローチと、ホントにマニア向け限定のアプローチでは
表現が違ってくるのでしょう、きっと。

とか、いまだにどっちも観てないのに偉そうに書いてみる。すいません。


佐藤直樹氏:
そうそうそうそんな感じ。
例えば死体芸術なら初期のウィトキンとかああいうのはいいんです。
デカいサメの死体そのまま飾ったりするダミアン・ハーストとかも良いです。
「イレイザー・ヘッド」もアートの文脈で語られる映画だと思う。コアな描写もあるけど全部リンチのギャグなんじゃないかと今は思ったりする余裕が出来てきました。あれほど自分とシンクロした映画は無かったわけですが。

「ネクロマンティック」は確かにあなたのおっしゃる表層的なグロ描写みたいな感じかね。深みが無い。「イレイザー・ヘッド」はアートだけど「ネクロマンティック」は下世話なビョーキ映画かも。でも中には「ふざけんな〜!」ってまるで自分とは逆の感性の人もいるわけでそれで世界は成り立っているんですな。


それを読んでその後またちょと考えた。
これってアートとフェティシズムの違いなのかなとか。

フェティシズムは個人の嗜好なので、他者に理解を求める必要はない。(理解してもらいたいという欲求が生まれることはあるとは思うけど、理解してもらわなくても成立するもの)
アートは人に理解してもらうことが前提にあると思う。(結果として失敗することがあるにせよ)
必ずしも意味を理解するということでなく、単純に綺麗だなーとか面白いなとか、受け入れてもらうというか。

フェティシズムの発露として作られるものは、同じ嗜好の人のために作られるもので、だからアートよりもハードコアというか、耽溺出来るんじゃないかなと思う。第2の視点て要らないというか。つーか、いちいち第2の視点持とうとしてたら、フェティシズムって成立しないんじゃないだろうか。以前、ガスマスクフェチ(いわゆる全裸でマスク装着という)の方のサイトを見たときのこと。完全に自分の好みに沿うビジュアルを手に入れるためには、マスクをカスタマイズしたりするみたいなんだけど、その中に、洗濯機のホースが実はパーツとしてぴったりだということを発見して、それを完全に理想通りにするためにまたカラーリングしたりするというくだりがあった。すごい手間ひまかけてるんだなあとか、そんな思いっきり日常生活な物体にそんな非日常の発想が出来るのかとか感心したけど、そういう作業してる途中に「自分何やってんだろ・・・」と、もしふと我に返ってしまったらそこでおしまいなんじゃないかとか思うんだけど。。よく分からないので、想像だけど。
で、フェティシズムって、理解のない外部に向けたら「変態」と呼ばれるわけです、往々にして。「病気」とか。

でも、変態と呼ばれるのも、人からはぶざまと映るのも承知で、わざわざそれを外部に向けて「変態か?これはあなたの中にだってあるんじゃないか?」という問いかけをするのがアートなんじゃないかとか。外部に向けてというのは、別に「公開する」という意味ではなくて、要するに、露出狂がコートを開いて見せるのはフェティシズムだが(第1の視点)、コートを開きながら「これは変態行為か?お前はどう思う?服を着てるか着てないかだけで突然区別が生まれる人間の存在て何なんだ?」とか問いかけたら(第2の視点の発生)それは芸術になるんじゃ?
・・・とか。(それが有効なアプローチになるかどうかは、また別ですが)

どっちが純粋な行為かと言えば単一の視点で行われるほうが「純粋」。問いかけるためだけにわざと過激な行為をしてみせる人もいて、そういうのは「嘘」であるわけだけど、アート=人工だからある意味仕方ない。社会生活というのはそもそも嘘が混じるものであって、それが健全と呼ばれてもいる。本当に人を殺さないのがアート、スナッフみたく本当に殺してしまうのがフェティシズム、みたいな感じかも。あまり極端に真実を求めてしまう人が危なっかしいのも同じような理由か。「大人は嘘つきだ!」の無意味さというか。

理解してくれる人にだけ向けていれば、ぶざまなことにはならず、むしろ尊敬されたりするわけだけど、それはフェティシズムの世界。褒められれば伸びるわけで(というか閉鎖的な空間ではエスカレートしやすいからか)、よりコアな、より突き詰められた究極のものはフェティシズムの中に存在するんじゃないかと思うけど、外部に向けて表現されることはない。しても理解されないし。理解してくれるかどうか分からない他者に対しても、玉砕覚悟で出してみる、というのがアートなんじゃないかと思っていて、そこが好きなところでもある。理解してもらうことに成功すれば世の中の役に立つし(多様性に対する貢献として)。それが成功したアート。かなり理想主義的な考え方なんだと思う。

「ネクロマンティック」は日本以外では公開できなかったわけで、つまりフィクションであるにも関わらずそれは「フェイク」とは見なされなかったわけで、死体そのものは偽物でも、別の意味で真性だったから拒絶されてしまったということなんじゃないかとか。真性=フェティシズムと考えるときっとアートじゃなくフェチ映画だったのだろう。現実的にはアートとフェティシズムに明確な線引きがあるわけではなくて、バランスの問題なのだろうけど。そこを両方濃く出来るのが天才なのかも。

結局何がしかの社会性を付与されることというか異なる他者との関係性を持つことがアートなんじゃないかと思う。アール・ブリュだって、誰かが、誰かがっつーかデュビュッフェが、ってことだそうですが、これは芸術だと世の中に向けて言わなければ、別にアートにはならなかったんじゃないかと。本人らは自分でアートだとか言うこともなく、何も関係なく描いたり作ったりし続けていただろう。洗濯機のホースをペイントするみたいに。自分自身の本来の性格はかなり内向的なので、心情としてはそういうものに非常にシンパシーを覚えるのだけど。人に見てもらえなくても、切り絵は止めないと思うし(他にやることないだけなんだが)。でもアールブリュみたいなものが、こうして全く関係のない、外部にいる自分にまで届いて、生きる活力を与えてくれることを考えると、やっぱり社会性というものに挑戦しなくてはいけないんじゃないかなとか思うようになったのだった。他人と関わるということが困難だからこそ、チャレンジしなくちゃいけないんじゃないかというか・・・。

なんかとりとめなくなってしまった。つい作る側と見る側の視点が混在してしまうせいもあるか。

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