Thursday, October 16, 2014

縛られた者は縛る者を導く


人とぶつかる時自分はつい、刺すなら刺せ去るなら去れという後がない勢いで相対してしまう(ので親しい人以外とは意識して衝突を避けてる)のだが、自分の意見が最終的に通ったとしても、本当はそれは相手に許されて通してもらっているだけのことであって、正しさでもまして勝利でも何でもない。ので揉めたあげく自分の意見が通るときは、揉めてる間はむきになるくせに終わるといつも恥ずかしい思いをする。

「しばられた者は、しばる者を導き、かくて両者は自由を認識する」

というのは最近カロッサの「ルーマニア日記」を読んでいたら出てきたフレーズだけど、そんな感じ。自分の意見が通るときとか一見勝ったように見えるときとは、結局は自分のほうが導かれ許されたときということでしかないのだろうと思う。と言って、逆に自分のほうが「しばられる側」であるとき、相手が同じように思う保証は全くないが。現実的には過去に私の気持ちを踏みにじった人たちは、何かを受け取ったと思うどころか、私の存在じたい忘れてしまっただろうけど、それは仕方ないしどうでもいいことでもある。あと「かくて両者は自由を認識する」という部分は具体的にどんな感じなのかまだよく分からない。

争うということ自体小さいことだし、愚かなことだが、でも何か物事を進めるときは争わざるを得ない場合もあるし、人は愚かさや小ささや、そういった不様さも引き受けないってわけにもいかないのだろう。せいぜい出来るだけ愚かっぷりを発揮しないで済むようにするくらいのものなのかもしれない。

とは思いつつ。
単に古本屋で売ってたから読んでるだけで、カロッサという人が何者なのか全く知らなかったので、軽くぐぐってみたら最初に「ハンス・カロッサ —ナチス政権下における精神的抵抗(三石善吉)」というのが出てきて、これはまだ途中までしか読めてないが、この中に引用されていた高橋健二という人の論文に使われている表現「貧血症的あきらめ」という言葉が、内容と無関係にちょっと気に入ってしまった。カロッサは貧血症的あきらめではないと思うけど、自分の態度は時々貧血症的あきらめかもしれない、というかなんかその「貧血症的」てすごくよく分かる気がする。クールというのとは違うと思う。カロッサは結構好きになりそう。まだ3つしか作品読んでないけど。

STATION


Alan Vegaの、4月にリリースされたばかりらしい『STATION』買った。ジャンルが何かとかはよく分からないけど、がしゃがしゃしたエレクトロニックなビートに例のギリギリな感じのボーカル、聴いていると大変落ち着く。それにしても70年代からずっと現役ってやっぱりすごい。

感情の器 Vessel of emotion


以前マリリン・マンソンのPVにブリトニー・スピアーズの曲をシンクロさせたらあまりにもピッタリだったというビデオをYoutubeで見たけど、現実的にマリリンもブリトニーも同じようなものかもしれんと思う今日この頃。ブリトニー・スピアーズの作品自体は興味はないけど、あまりにニュースが凄まじいので、大変だな、立ち直って欲しいなと思うようになった。
Suicide was always about life. But we couldn' t call it Life. So we called it Suicide because we wanted to recognize life. (Quotations from Alan Vega, Wikipedia)


アルコール依存や自殺や自傷というのは、心を死なせないために身体を犠牲にする行為で(しかし身体を犠牲にすることで結局は心も共倒れするが)、じゃあ身体をかばうために心がやることが何かというのはいまいち思いつかないのだが、とにかく一見して自殺行為に見える行動は、何かをかばうため、ある意味生きるためにやることなのじゃないかと考えてみたけど、それって皮肉な話でもあるなと思う。裏表があって、二面なんだけど、でも同一のものだという現象はややこしい。

神話の本読んでたら、たいてい相反する二つのものに対して、第三の存在とか現象とかが出てくるという話があって、面白い。それで中和されるというか、調和する。第三の存在というのは大抵何もしない人とか役立たず?というか、「無為」なものなんだとかいうのも興味深い。

ちょっと違う話になってしまうが、自分の中にあるものが裏返しになって外に出てくると、自分でもなかなか手に負えないものだと思う。相手に対する憎しみの根源が愛情で、でもその愛情だと思ってるものが単なる執着に過ぎないのかもしれず、でもそもそもその執着が生まれたのが愛情からだったとなると、いちいちそれが何なのか考えたり、名前を付けて分類したりするのはばかばかしくなってくる。要するに全部まとめて一種のエネルギーであって、それをlifeと呼ぶかsuicideと呼ぶかは(あるいは愛憎どちらに分けるかは)、手のひらを見て手と呼ぶか、手の甲を見て手と呼ぶかみたいなもので、どちらも同じものの裏表なだけだという気がする。問題はそれをどういう形で表出させるかだけかもしれない。例え気持ちが伴っていなくても、いい形で表出出来れば解決するのかもしれない。液体をどんな形の器に入れるかみたいなもので、そもそもは形なんかなくて、丸いものに入れれば丸くなるし、四角いものに入れれば四角くなるし、液体=気持ちというかエネルギーそのものの本来の形などというものはないとすれば、どういう風に表出されるかは器の形状だけの問題だということになる。人間関係で言えば技術の問題。愛してるという言葉を使えば愛情になるし、殺してやると言えば憎しみになるとすれば、どっちの言葉を言うかだけが問題で、自分がどう思ってるかなんて問題じゃないのかもしれない。「本当は愛しているけど憎しみの言葉を言う」ということは成立しなくなる。憎しみの言葉を言えばそれは憎しみになる。こういうことを「当たり前じゃないか」と思える人がいるとしたらうらやましい。何だかよく分からなくなったので終わり。

森羅万象の佐藤直樹氏のとこのBBSでの、グロ映画「ネクロマンティック」についての以前のやりとり。(映画は見てないくせに・サントラは最近大好きになったへルマン・コップ)


自分:
さすが本国で上映禁止になっただけあるようですね。
自分はとうてい見れそうにありません。文字だけなら笑えますけど。。

なんか、死体趣味を単なる死体趣味以外のところにまで持っていける
(アブノーマルなものにある種の普遍性を持たせられる)人と、
アブノーマルなものをそのままアブノーマルに提示してしまう人の
差なのかもしれませんね。

つまり、
異常だけど、でも実は誰にでもその異常性は潜んでるかもしれないよ、
というアプローチと、ホントにマニア向け限定のアプローチでは
表現が違ってくるのでしょう、きっと。

とか、いまだにどっちも観てないのに偉そうに書いてみる。すいません。


佐藤直樹氏:
そうそうそうそんな感じ。
例えば死体芸術なら初期のウィトキンとかああいうのはいいんです。
デカいサメの死体そのまま飾ったりするダミアン・ハーストとかも良いです。
「イレイザー・ヘッド」もアートの文脈で語られる映画だと思う。コアな描写もあるけど全部リンチのギャグなんじゃないかと今は思ったりする余裕が出来てきました。あれほど自分とシンクロした映画は無かったわけですが。

「ネクロマンティック」は確かにあなたのおっしゃる表層的なグロ描写みたいな感じかね。深みが無い。「イレイザー・ヘッド」はアートだけど「ネクロマンティック」は下世話なビョーキ映画かも。でも中には「ふざけんな〜!」ってまるで自分とは逆の感性の人もいるわけでそれで世界は成り立っているんですな。


それを読んでその後またちょと考えた。
これってアートとフェティシズムの違いなのかなとか。

フェティシズムは個人の嗜好なので、他者に理解を求める必要はない。(理解してもらいたいという欲求が生まれることはあるとは思うけど、理解してもらわなくても成立するもの)
アートは人に理解してもらうことが前提にあると思う。(結果として失敗することがあるにせよ)
必ずしも意味を理解するということでなく、単純に綺麗だなーとか面白いなとか、受け入れてもらうというか。

フェティシズムの発露として作られるものは、同じ嗜好の人のために作られるもので、だからアートよりもハードコアというか、耽溺出来るんじゃないかなと思う。第2の視点て要らないというか。つーか、いちいち第2の視点持とうとしてたら、フェティシズムって成立しないんじゃないだろうか。以前、ガスマスクフェチ(いわゆる全裸でマスク装着という)の方のサイトを見たときのこと。完全に自分の好みに沿うビジュアルを手に入れるためには、マスクをカスタマイズしたりするみたいなんだけど、その中に、洗濯機のホースが実はパーツとしてぴったりだということを発見して、それを完全に理想通りにするためにまたカラーリングしたりするというくだりがあった。すごい手間ひまかけてるんだなあとか、そんな思いっきり日常生活な物体にそんな非日常の発想が出来るのかとか感心したけど、そういう作業してる途中に「自分何やってんだろ・・・」と、もしふと我に返ってしまったらそこでおしまいなんじゃないかとか思うんだけど。。よく分からないので、想像だけど。
で、フェティシズムって、理解のない外部に向けたら「変態」と呼ばれるわけです、往々にして。「病気」とか。

でも、変態と呼ばれるのも、人からはぶざまと映るのも承知で、わざわざそれを外部に向けて「変態か?これはあなたの中にだってあるんじゃないか?」という問いかけをするのがアートなんじゃないかとか。外部に向けてというのは、別に「公開する」という意味ではなくて、要するに、露出狂がコートを開いて見せるのはフェティシズムだが(第1の視点)、コートを開きながら「これは変態行為か?お前はどう思う?服を着てるか着てないかだけで突然区別が生まれる人間の存在て何なんだ?」とか問いかけたら(第2の視点の発生)それは芸術になるんじゃ?
・・・とか。(それが有効なアプローチになるかどうかは、また別ですが)

どっちが純粋な行為かと言えば単一の視点で行われるほうが「純粋」。問いかけるためだけにわざと過激な行為をしてみせる人もいて、そういうのは「嘘」であるわけだけど、アート=人工だからある意味仕方ない。社会生活というのはそもそも嘘が混じるものであって、それが健全と呼ばれてもいる。本当に人を殺さないのがアート、スナッフみたく本当に殺してしまうのがフェティシズム、みたいな感じかも。あまり極端に真実を求めてしまう人が危なっかしいのも同じような理由か。「大人は嘘つきだ!」の無意味さというか。

理解してくれる人にだけ向けていれば、ぶざまなことにはならず、むしろ尊敬されたりするわけだけど、それはフェティシズムの世界。褒められれば伸びるわけで(というか閉鎖的な空間ではエスカレートしやすいからか)、よりコアな、より突き詰められた究極のものはフェティシズムの中に存在するんじゃないかと思うけど、外部に向けて表現されることはない。しても理解されないし。理解してくれるかどうか分からない他者に対しても、玉砕覚悟で出してみる、というのがアートなんじゃないかと思っていて、そこが好きなところでもある。理解してもらうことに成功すれば世の中の役に立つし(多様性に対する貢献として)。それが成功したアート。かなり理想主義的な考え方なんだと思う。

「ネクロマンティック」は日本以外では公開できなかったわけで、つまりフィクションであるにも関わらずそれは「フェイク」とは見なされなかったわけで、死体そのものは偽物でも、別の意味で真性だったから拒絶されてしまったということなんじゃないかとか。真性=フェティシズムと考えるときっとアートじゃなくフェチ映画だったのだろう。現実的にはアートとフェティシズムに明確な線引きがあるわけではなくて、バランスの問題なのだろうけど。そこを両方濃く出来るのが天才なのかも。

結局何がしかの社会性を付与されることというか異なる他者との関係性を持つことがアートなんじゃないかと思う。アール・ブリュだって、誰かが、誰かがっつーかデュビュッフェが、ってことだそうですが、これは芸術だと世の中に向けて言わなければ、別にアートにはならなかったんじゃないかと。本人らは自分でアートだとか言うこともなく、何も関係なく描いたり作ったりし続けていただろう。洗濯機のホースをペイントするみたいに。自分自身の本来の性格はかなり内向的なので、心情としてはそういうものに非常にシンパシーを覚えるのだけど。人に見てもらえなくても、切り絵は止めないと思うし(他にやることないだけなんだが)。でもアールブリュみたいなものが、こうして全く関係のない、外部にいる自分にまで届いて、生きる活力を与えてくれることを考えると、やっぱり社会性というものに挑戦しなくてはいけないんじゃないかなとか思うようになったのだった。他人と関わるということが困難だからこそ、チャレンジしなくちゃいけないんじゃないかというか・・・。

なんかとりとめなくなってしまった。つい作る側と見る側の視点が混在してしまうせいもあるか。

あきゅらいず美養品さんの隔月発行「あきゅ便り」、6/7月号が出ています。





今回のテーマは七夕。キャラクターぽいものとか人間描くの久しぶりだった。仕事とかで言われないで放っといたら、たぶんあんまやらないジャンルなので、チャレンジになりました。

HEAVENLY BODIES 2


作品のページに、『天体』シリーズのスライドショー2を追加しました。
I added another slide show of "HEAVENLY BODIES" to gallery page.

>> cohac.com/m

まだ5点しかありませんが、これから少しずつ追加していく予定。
There are only 5 works in the new slide show now, but I will add more aftertime.

最近ずっと、今までより大きいサイズの作品を作っているのだけど、大きい絵を描くということがこんなにも満足感を与えてくれるものだということをようやく知った。この上ない快楽。
I am occupied with new cutouts these days, those works are much larger than my past works. I never knew that large drawing makes me feel this satisfy. It is complete felicity.

小石川フリーコンサートフライヤー Koisikawa Free Concert Flyer


まだちょっと先(9月)ですが、次回の「図書館を利用する音楽家の会」=図音会企画、「2007年小石川フリーコンサート」のフライヤー作りました。



Vol.1は鈴木治行さん作曲「語りもの」の上演、
Vol.2はマヘル・シャラル・ハシュ・バズの工藤冬里さんのピアノソロです。
詳細は画像ごらんください(クリックで拡大)。

明日の図音会7月の企画で配布します。
明日は音楽ワークショップとライブです。詳細は→こちら、「おとのおと」高橋さんによるCreate Fantastically Blogでの告知は→こちら